サインは秘め事の後に

 
 私の務める神羅カンパニーは経費精算の締日が月末最終日に設定されている。経理部に所属する私にとって、その日は最も重要で、1ヶ月の中で最も忙しい日だ。経費精算に関する駆け込みの問い合わせ対応から始まり、書類の回収、不備の確認、場合によってはサインひとつ貰うためにビルを上から下まで駆け回ることだってある。それと並行して、月次決算の処理もしなくてはいけない。とにかく、体5つあっても足りないほどに忙しいのだ。

 いつもより1時間ほど早く出社をして、すでに最終日の賑わいを見せ始める事務所でコーヒーを淹れれば、ほろ苦い香りが鼻孔をくすぐって意識がじわじわと仕事モードへと切り替わっていく。今日の相棒となるコーヒーマグを片手に心してメールボックスを開けば、毎月恒例、締日最終日に配信される最終警告リストが私を待ち構えていた。このメールに名前が載るのは、社内のカードを切って出張に行ったり備品を購入したにもかかわらず、領収書や証明書の提出をしない社員達だ。警告リストに上から下まで目を通せば、もはや親の顔より見たと言っても過言ではない名前がズラリと並んでいる。
 この大企業故に相当数の名前が載っているけれど、まだ焦る時ではない。この困った常連社員の大部分はこちらから催促のメールを送れば定時までには提出してくれると過去の経験で把握している。

「問題は、この人なんだよねぇ……」

 コツコツ、とモニターでその名前を指先で叩いてなぞる。総務部調査課の、レノさん。タークスに所属するレノさんはとにかく多忙で、過去に幾度となく期日を破り、その度に経理担当として心を鬼にして始末書の提出を強いている。社内でも特異な部署だ、その仕事の性質から会社も特例として対応をしてくれれば良いものを、頭の固い上層部の人間は頑なにそれを認めない。これは個人の見解だけれど、もしかしたら副社長の元で特別な地位を築く彼らに対する嫌がらせの意味も含んでいるのかもしれない。
 そんな事を思っていても私のようなヒラ社員にはそれを変える力があるわけもなく、警告リストに名前が上がっている社員全員に同一の催促メールを送信する。「本日中に書類を提出するように」と。きっと、この人達には現場の忙しさががわからない五月蝿い事務員からのメールだと思われているのだろうけれど、それでも、期日はきっちり守ってもらわないと。後から始末書で困るのは本人達だ。今月はスムーズに処理ができますようにと祈るような気持ちで警告リストを一旦閉じて、月次決算処理に着手した。


*****


 お昼休憩のアナウンスが鳴ってからどれぐらい経っただろう。今日はきっと社食に行く時間もないだろうと駅前のパン屋でサンドイッチを買っておいたけれど、それは正解だった。本来なら3時のおやつを楽しむ時間に、デスクでもそもそと少し萎びたレタスの挟まったサンドイッチを頬張る。サンドイッチ片手に、マウスホイールをくるくる回して、メールの受信欄に目を走らせる。

「……やっぱり、まだ来てない」

 私の嫌な予感は的中して、メールボックスに次々と送られて来る書類提出を告げるメンバーの名前に、例のレノさんの名前はなかった。自然と、大きなため息が漏れる。

「眉間にシワ寄ってるけど、大丈夫?」
「先輩……大丈夫じゃないです……」
「もしかしなくても、調査課の回収?」

 よっぽど私が険しい顔をしていたのか、隣の席で私と異なる経理業務を進める先輩が、気遣わしげに眉をひそめながら声を掛けてくれた。元々先輩が担当していた経費関係の業務を私が引き継いだので、タークスの人達に手を焼いていることをすぐに察してくれた。

「あの人達ほんとに多忙だからね……事務所にいるなら、直接もらいに行った方がいいかも。タイミング悪いと嫌な顔されるけどね」
「先輩、たまに行ってましたよねそう言えば。うー、怖いから内線入れとこうかな」
「後にしてくれだのなんだので逃げられるから、その受話器はおいた方がいいわよ」
「ウッ……」

 流石、私の何倍もの期間経費関連の業務をしてきただけある。一報を入れようと手に取った受話器を言われた通りに元に戻す。かと言ってこの忙しい日に無駄足になるのも嫌なので、社内PCの使用状況を確認すれば、まさに今レノさんはPCを使用している最中だった。今なら事務所にいる。何度も何度も始末書を書かせている張本人の私にいい顔をしてくれるとは思えず、先輩の言う「嫌な顔」を向けられるかもしれないと思うと気分は乗らなかった。けれど、レノさんの為にもなることだと言い聞かせて重い腰を上げる。

「がんばれ、なまえ。生きて、帰るのよ」

 まるで戦場に赴くかのような先輩のセリフに苦笑いを返しつつ、私はオフィスを後にしてエレベーターに乗り込んだ。


 総務部調査課は地下階にある。通常は業務と関係のないフロアには降り立つことができない為、1階の受付で地下街へのカードキーを借りて、再びエレベーターへ乗り込む。程なくしてチン!と私の気分とは真逆の陽気なベルの音と共に総務部調査課のあるフロアへと降り立てば、そこはいやに静かで、人通りも無ければ他の階ではあちこちから聞こえる電話応対の声やキーボードを叩く音もしない。なんだかこの会社から切り離されて、孤立したような場所に思えた。

 程なく進んだ先に立ちはだかった調査課の扉の前でふぅ、と小さく呼吸を整える。レノさんから貰うべきものは2つ。出張時の領収書と、精算の為のサインの入った申請書だ。さっさと貰って、事務所に戻ろう。そう意を決して目の前の事務所の扉をノックをしたけれど、部屋の中から反応はなく、通路に虚しく扉を叩く音だけが響き渡る。そしてまた訪れる静寂。
 

「外出しちゃったかな……」

 携帯端末でもう一度PCのログイン状況を確認すれば、確かにまだ在席中の表示がされている。絶対にいる。この部署の扉を勝手に開けるのはあまり良いことではないと分かっていたけれど、カードキーまで借りてここまで来てしまったので、手ぶらで帰ることは避けたかった。恐る恐るドアノブを回して、僅かにできた隙間から声をかける。

「すみません、経理部の者ですが、レノさんはいらっしゃいますか?」

 しんと静まり返った室内に、自分の声だけが響いてなんだか落ち着かない。念押しにもう一度名前を呼ぶためにすぅ、と息を吸い込んだ瞬間、「呼んだか?」と私の頭上に声が降って来た。突然のことに、吸い込んだ息は「ぎゃ!」というおかしな声に変換されて、同時に自身の肩が跳ね上がる。ゆっくりと振り返り声の主を見上げれば、そこにはタークスの証である黒いスーツに身を包んだ男性が目と鼻の先に立っていた。私を見下ろす浅緑の瞳、目の覚める様な緋色の髪、そこから覗くピアス、そして額のゴーグルへと順々に視線が吸い寄せられる。名前を聞かずとも、噂に聞く特徴的な姿からレノさんだとすぐにわかった。

「ふはっ、なんだよ今の声。取って食ったりしないぞ、と」
「と、とって食う!?」

 思いもよらないレノさんの反応にバカみたいにオウム返しをすれば、また可笑そうに喉の奥でくつくつと笑った。いい子にしないとタークスがくるよ、のレノさん。もっと近寄りがたい、尖ったナイフのような人物を想像していたのに、噂とは大分印象が違う。

「んで、何の用事?経理部って言ったよな?」

 想定していた対応との温度差に戸惑いながらも、抱えて持ってきた、書類の入ったクリアファイルを渡す。

「これ、経費精算の申請書です。あ、えーと……今月分の経費精算の件でメールを朝イチに送ってるんですけど……見て頂けてますか?」
「メール?ついさっきまで外出てたから、見てねぇ」

 そう言ってピスポケットから取り出した携帯端末をとりだし、2、3度スワイプしたのちに「これか」と小さくため息をついた。そして眉間僅かに刻まれる、皺。これが先輩の言う「嫌な顔」なのかもしれない。でもそんな表情にも納得が行った。メールの確認すらできないほどに、タークスは忙しいと言うことを再認識させられた。当事者を目の当たりにして、常日頃感じている会社の体制への不満がまたむくむくと顔を出す。

「……うちの会社、技術的には進んでるのにこう言うところ本当に原始的ですよね」
「お、あんたもそう思う?」 
「毎日思ってますよ。回収しに来てる私が言うのも変ですけど紙の書類、多すぎますよ絶対」
「現場のことわかってないよな。毎月何枚始末書書いてるかわかんねーよ俺」
「ほんとに!タークスとか、ソルジャーの人達には特例措置でも作ってくれればいいのに……始末書の提出を強いる私の身にも、なってほしいですよ」

 溢れ出る不満を矢継ぎ早に口にしたところで、ハッと我に帰った。細められた浅緑の瞳が、私をじっと見据えている。忙しい上にこんな愚痴に付き合わせてしまって、何をやってるんだ私は。

「す、すみません。忙しいのに私がレノさん時間使っちゃいましたね」
「ふはっ!突然やってきて会社の愚痴とは。面白いな、あんた。次の仕事まで少し時間あるし気にすんなよ、真面目ちゃん」

 おかしな名前で私を呼んで、んじゃ領収書とってくる、と私を扉の外に残したまま調査課のオフィスに姿を消すレノさん。また静けさを取り戻したフロアで、僅かに鼓動を早めた心音が自分の耳にまで届く。彼と直接接触することの多い秘書課や受付の同僚が、レノさんの名前を事あるごとに口にする理由がよくわかった。魅力的な容姿、掴み所のない存在感、それでいて親しみやすさがある。タークス所属という危険な要素もまた、一つのスパイスなのかもしれない。社内の女性人気があることに至極納得した。そして、私もまたほんの僅かな時間で、その人気を支える1人になってしまったことも、自覚した。
 程なくして厚みが増したクリアファイルを抱えたレノさんがオフィスから戻ってきた。月に何度遠征をしているのだろう、毎度ものすごい量の領収書だ。ファイルとは別に、失礼だけど意外にも綺麗な文字でサインの入った申請書も手渡してくれた。

「じゃあこれ、領収書と申請書な。すっかりわすれてたからすげー助かったわ」

 書類を取りに来ただけなのにこんな言葉をかけてくれて、単純な私はなんだかすごい偉業を成し遂げたような気分になってしまった。普段のデスクワークでは味わえない仕事の達成感を感じて、思わずお節介を口にしていた。ほんの僅かに、下心もそこにはあったけれど。

「ご迷惑でなければ来月も書類、受け取りに来ますよ!」
「それ、俺がまた警告リストに載ること確信してるよな?」
「ふふ、バレました?」

 訝しげな視線を投げられつつも、レノさんの口角が上がっていることに気づいてしまった。どうやら、思いつきのお節介は成功したらしい。
 これで私の任務は完了だ。さっさと戻って月締め業務に戻らないといけないのに後ろ髪引かれる思いがあるのは、目の前のレノさんと言葉を交わすのが存外に楽しかったから。いつまでも引き留めておくわけにもいかないけれど、経理の私がまたこうして話せる機会なんて滅多に訪れる訳もなく、せめてほんの僅かでもレノさんの記憶に爪痕を残したくて、ありったけの勇気をかき集めて口を開こうとしたその時、「それにしても……」と不意に言葉を切り出したレノさんの顔がぐっと近づいてきて、思わず一歩後ずさった。浅緑の瞳に、どんな言葉が飛び出すのか僅かに怯えた表情の私の姿が映り込んでいる。私よりも頭ひとつ分高い位置から見下ろされるこの感覚は、落ち着かない。

「あんたみたいな可愛い子が俺にいつも始末書書かせてるとは、知らなかったぞ、と。メールの文面がが硬いから、もっとキツイ奴想像してたけど」
「……へ?」
「じゃ、仕事戻るわ。今度飲みに行こうぜ、なまえちゃん」

 いつの間にか私の首に下がる社員証を盗み見たのだろうか、まるでずっと昔から知り合いだったかのように私の名前を口にして、私の返事なんて聞かないままにひらりと手を振ってまた事務所に消えていった。暫くの間呆然と立ち尽くす。これも女性社員の支持を得る一つのテクニックなのだろうか。きっと、このリップサービスに他意など無いに決まっているのに、私の顔を朱に染めるには十分すぎる破壊力だった。静寂を取り戻したフロアに1人取り残される。顔が熱くて、心臓がうるさい。
 受け取ったクリアファイルを抱えて、昂揚する気持ちをどうしたって押さえきれずに小走りでエレベーターホールに向かう。ここに至るまでの足取りはひどく重かったのに、現金なもので今は羽のように軽い。この忙しい月末最終日、やるべき事はまだまだたくさんある筈なのに、頭の中でレノさんと他愛のない言葉を交わしたほんのひと時の出来事でいっぱいだ。
 きっと私は、恋を、してしまった。次に言葉を交わせるとしたら、次の締め日だ。あんなにも私の頭を悩ませる名前の筈だったのに、今となってはその名前が警告リストに載って欲しいと願ってしまっている。

「はぁ……来月末、早く来ないかなぁ」
 
 ゆっくりと上昇するエレベーターの中で、我ながらおかしな独り言が漏れた。




*****




 それからというもの、私は普段からレノさんの一挙手一投足を目で追うようになった。元々あの目立つ風貌故に意識をしていなくても視界に入ることは多かったのだけれど、この恋を自覚してからというもの、彼を見つける度に自然と目が引き寄せられてしまう。
 気付いたことも多い。例えば社食で同僚と一緒に食事を食べる時、日替わりのワンコイン定食を食べることが多いこと。それから、リフレッシュフロアの自販機近くで一服をする時、決まってブラックの缶コーヒーを買っていること。それから……


「ねー、レノ。今日夜空いてないの?飲み行こうよー」


 例によって先日回収を終えた書類の束を台車に乗せて保管倉庫へと運ぶ道すがら、突如としてエントランスホールに響く甘えた声。タークスのオフィスがある下階から出てきたばかりのレノさんを呼び止めたのは、広報課の女性社員だった。ふわふわの巻き髪、ガラス玉のような大きな瞳、タイトなシャツからのぞく豊満な胸元。女の私から見ても非の打ち所がない容姿の彼女も、例に漏れずレノさん目当ての社員だ。それ故に、総務部に異動願いを出したとかなんとか。そんな風の噂を耳にしたのはつい最近のこと。
 肩が触れ合うほどにレノさんの側にピッタリとくっついて、楽しげに談笑している。思わずため息が漏れるほどにお似合いだ。こんな調子で、とにかく社内の可愛い社員達との仲睦まじい姿を何度目にしたか……既にその回数を指折り数えることは諦めてしまった。

「倍率、高すぎるよ……」

 吹き抜けの階下に見えるその姿を遠目に眺めながら、自然と漏れる溜息。こんな光景を目にする度に、あの日感じた高揚感がガスの抜けた風船のように日に日に少しずつしぼんでいく。あれから結局関わりがあるとすれば、電子メールでの業務的なやりとりと、社内で運よくすれ違った時に小さく会釈をする程度。仕事の口実がなければ自ら接点すら持てない私が、レノさんのリップサービスに浮かれて、期待してしまって、惨めで笑えた。
 保管庫のある上階行きのエレベーターを待つ間、ふとエレベーターの扉に映る自身の姿が目に入る。広報課や秘書課の子達のようにこれと言った容姿の強みがあるわけでも、受付の子のように愛嬌があるわけでも、誰もが羨むような抜群のスタイルを持つわけでもない。汗水流して台車を押す、特別写り映えのしない私の姿だけが映っていた。身分不相応な、恋なのかもしれない。

 程なくして扉に映った私の姿が半分に引き裂かれてエレベーターの扉が開かれる。台車の車輪が扉の溝にはまらないように注視して押し込んだつもりなのに、案の定後輪が引っかかってしまった。書類入り段ボールが山積みの台車は意外にも重たくて、なかなか押し込めない。

「すみません、ちょっと、待ってください……!」

 エレベーターの先客に一声かけて、もう一度力をこめて台車を押そうとしたその時、がこん、という音と共に車輪が溝から外れてスルスルと台車がエレベーターの中へと引き込まれた。台車に引っ張られるようにエレベーターに転がり込んだ私の目に突如として飛び込んできた赤に、私は思わず息を呑んだ。

「よぉ、なまえちゃん。随分重い荷物運んでるな」

 車輪に集中していたので、全く気が付かなかった。エレベーターの先客は、つい先程吹き抜けの階下にいたレノさん……と、広報課の女性社員だった。台車がスムーズに押し込めたのは、レノさんがアシストしてくれたからだった。名前、覚えていてくれたんだ。ただそれだけなのに胸がきゅうと痛くなる。身の丈に合わない恋だとどこかで感じつつも、やっぱり好きになってしまったんだなと改めて実感する。
 何階?と操作パネルを指差すレノさんに保管庫のある階を告げれば、到着階の書かれた階数ボタンが点灯した。

「すみません、助かりました。ここ、よく引っかかっちゃうから気を付けてたんですけど……」
「気にすんな。台車あっても、この量じゃ運びにくいだろ」

 紙ばっか使う会社のせいだな、と言って悪戯っぽく笑うレノさんにつられて私の頬も緩む。また、一つ気付いてしまった。レノさんが笑う時に僅かに顔を出す犬歯が、チャーミングでカッコいいということ。レノさんを見かける度、会う度に新しい発見があって幸せな気持ちになってしまう。我ながら重症だ。

 幸せに浸る中ふと、視線を感じてその先に意識を向ければ、私たちのやり取りを見ていた広報課の女性社員がまるで品定めをするかのように私を頭のてっぺんから爪先まで視線を滑らせているのがわかった。嫉妬してしまうほどに綺麗で大きな瞳と、私の視線がぶつかる。なんとなく、居心地が悪くて目を逸らせば、広報課の彼女はレノさんのスーツの裾を軽く引っ張った。

「ちょっとレノ、話の途中なんだけど。夜の件、連絡ちょーだいね」
「ん?あー、そうだった。後でな」
「ぜっったいに、忘れないでね!じゃあまたね」

 念押しするように人差し指をレノさんの胸元に突き立てる。何かの約束を交わしたのち、到着したフロアへと降り立って行った。ふわ、とエレベーターに微かに残る流行りの甘い香水の香り。エレベーターの扉が閉まる直前、広報課の女性社員が勝ち誇ったかのような表情を浮かべていたのは、多分、見間違いなんかじゃない。レノさんと今夜、どこか飲みにでも行くのだろう。この間飲みに行こうと誘ってくれたけれど、それは特別なことでも何でもないのだと見せ付けられた気がして、胸の奥がちくりと痛む。そんな私の気持ちなど知る由もなく、レノさんは去っていく女性社員の背中を見送って呆れ顔で小さくため息をついた。

「そそっかしいよな、あいつ」
「広報課の方、ですよね?」
「そ。付き合い長くてな。顔合わせる度に絡まれるんだよ」
「あはは……確かに顔見知りって感じの距離感ではなかったかも。凄く仲良いんですね、あの方と」

 あ、やばい。うまく笑えているだろうか。自分で言葉にしながら、それが自分の胸に突き刺さる。付き合ってもないくせに、勝手に嫉妬して、勝手に傷付いて、何様なんだ私は。2人っきりのエレベーターは嬉しいはずなのに、こんな気持ちになるなら鉢合わせなんてしたくなかった。

「何?嫉妬??」

 悪戯な笑みを唇の端に浮かべて、初めて会った時と同じように私の顔を覗き込む。「そんなわけ!」と努めて明るく言葉にしようとしたのに、そのまま言葉を続けようものなら何かが込み上げて来そうで慌てて口をつぐんだ。他意はない、私を笑わせようと発せられた冗談だとわかっているのに、突如として複雑な胸の最中を射抜かれた心地がして、うまく言葉が紡げなかった。
 エレベーターのモーター音と、頭上で低く唸る換気扇の音だけが私達の間に流れる。これじゃあ私が図星だって白状しているようなものじゃないか。何も言わずとも、きっとレノさんには勘付かれてしまっている。私のこの、浅ましい恋心が。


「……嫉妬、しました」


 沈黙を破ったのは、私の方だった。口にしてからすぐに後悔した。何を言っているんだ私は。こんなこと言えばレノさんが困ることくらい容易に想像がつくというのに。
 私を覗き込む浅緑の瞳が僅かに見開かれて、揺れる。私の中で羞恥心が一気に膨れ上がっていく。恥ずかしくて情けなくて、いろんな感情が渦巻いて今すぐここから消えてしまいたい衝動に駆られたその時、神様が計らってくれたかのようなタイミングでエレベーターが停止して、軽快なベルの音と共に扉が開く。
 
「あ……はは、ご、ごめんなさい。今のなしでお願いします、お疲れ様です!」

 気まずさを誤魔化すように勢いよくぺこりと頭を下げて、ドアが開くと同時に私は力いっぱいふかふかのエレベーターマットを蹴って、逃げるようにエレベーターから降りた。完全に、おかしな女だ。レノさんがどんな反応をしたのか、怖くて振り返ることさえできない。飛び出す私を静止する声が聞こえたような気もしたけれど、なりふり構わず一目散にその場を離れた。
 
 人気のない廊下をガラガラと台車を押して小走りで進みながら、私の胸の中で様々な感情が入り乱れる。
なんであんなことを言ってしまったんだろう。どうしようもない、大馬鹿だ。好きになって貰える自信なんてない。だから、せめて嫌われたくないと思っていたのによりによって、一番言ってはいけない言葉を告げてしまった。
 今日で終わりかもしれない。いや、終わりになければいけない。これ以上、気持ちが大きくなってしまわないうちに、レノさんから離れなければ。彼の口から告げられる拒絶の言葉に、きっと私は耐えられない。そう心に決めて、保管庫へと歩みを進めた。台車はさっきよりも、ずっしりと重たいものに感じた。




*****




 私の日常はまた大きく変わった。社内でレノさんの姿を追う日々から一転して、とにかく彼との接触を避けることに徹した。たまの社食ランチが密かな楽しみだったけれど事務所内でお昼を済ませることが増え、リフレッシュフロアのカフェテリアで小休止することもやめて、きっとレノさんが訪れないであろう経理部のフロアの自販機スペースで一服するようになった。そんな私の小さな努力は功を奏して、日常を彩っていた赤色が私の視界に映り込むことは殆どなくなった。これでいい。きっとこれが正しい選択なんだ。そう自分自身に言い聞かせて、胸にぽっかりと空いた穴を埋めるように、仕事に打ち込んだ。忙しい日々のおかげで、あれだけ悩んでいたはずの気持ちを紛らわすことが出来たのは皮肉な話である。でもそんな私の努力や決意を嘲笑うかのように、その出来事は起こった。

 それは毎月の恒例と化した月末最終日の業務に追われていた夜のことだった。今回の月締め作業は驚くほどスムーズに回収が終わり、警告リストのメンバーの提出物も早々に揃った。最終日にしては奇跡的な早さで帰れそうだと安堵のため息を漏らしながら書類の不備を確認する最中、一緒に確認作業をしてくれていた先輩社員が私の肩を叩いた。

「なまえ、この経費精算の書類サイン漏れてるわよ」

 そう先輩から手渡されたのは、領収書がいっぱいに詰まったクリアファイルだった。見覚えのあるフォルムにどきりと心臓が跳ねる。まさか……と思いながらファイルに挟まった経費精算の申請書には、総務部調査課の所属だけが書き殴られていて、先輩の言う通り肝心のサインが書き漏れている。見覚えのある筆跡に心臓が忙しなく鼓動を早める。わざわざ聞かなくても誰のものかなんて、レノさんを中心に回っていた日々を送る私に分からない訳がなかった。先輩が慣れた手つきでキーボードを叩けば、良いのか悪いのか総務部調査課のPCは使用中の表示。「事務所にいるみたいね」と私にクリアファイルを手渡した。

「この間みたいにサッと行ってきちゃいなさい」

 調査課への回収が別段恐れるものではなかっただったなんて、浮かれて口走ってしまったついひと月前の私を呪った。あれだけレノさんのことを避け続けてきたけれど、こればっかりは仕事だから避けて通るわけにはいかない。サイン一つで始末書を書かせることになる事態を、流石に見過ごせなかった。
 意を決して、私は立ち上がった。クリアファイルを握る手に力がこもる。大丈夫、ただサインを貰ってくるだけ、何も緊張することなんてない。自分にそう言い聞かせながら、総務部調査課のオフィスへと足を向けた。



 ついひと月前と同じように受付でカードキーを借りて、静けさが漂う地下階へと降り立つ。どうにもこのフロアの雰囲気には慣れない。コツコツと自身のヒールが床を叩く音だけが通路に響き渡る。ただサインをもらうだけ、それだけのことだと理解はしているのに調査課の扉の前に立つまで、私の頭の中はどんな顔をして、どんな調子でレノさんと話をするか、そればっかりが巡っていた。結局、答えは出なかった。なるようになれ、と半ばヤケクソになりながら緊張で少し汗ばんだ拳で扉を叩く。

「すみません、経理部のなまえです」

 控えめに声をかけると、この間とは打って変わってすぐに返事があった。その声の主は紛れもなくレノさんのもので。胸が高鳴ると同時に、身体が強張っていくのを感じた。音もなく開かれた扉。初めて会った時のように、少し高い位置から浅緑の瞳が私を見下ろしていた。レノさんのその瞳も、気崩されたスーツから覗く胸板も、とてもじゃないけれど直視できなくて仕方なく手元のクリアファイルに視線を落とした。久方ぶりに目の当たりにした姿にきゅうと胸が苦しくなるのを無視して、頭の中で何度も反芻したセリフを読み上げる。

「お疲れ様です。書類のサイン抜けていたので貰いにきました」

 できる限り平常を装って、あくまでも事務的に、穏便にこの場を去れることを祈りながら私はクリアファイルを差し出した。彼は私が差し出したクリアファイルを一べつすると、何故かこのタイミングにそぐわない意地の悪い笑みを唇の端に浮かべた。

「やっぱり来たな、真面目ちゃん。マジで、あんたタークスの才能あるかもな。この1ヶ月俺から逃げて社内で過ごすなんて」

 くつくつと喉を鳴らして、冗談めいた言葉を口にする。この1ヶ月の私の行動はまるっきりバレていたようで、しかもそれを面白おかしく揶揄されている事実に恥ずかしさがこみ上げてくる。でもそんな羞恥心よりも、まるで私がここに来ることが分かっていたようなレノさんの言葉に違和感を感じて、頭の中によぎった疑問を口にせずにはいられなかった。

「わ……わざと書かなかったんですか、サイン!?」
「あんな所属だけ書いて名前書かないやつも、なかなかいないだろ」
「な……なんでそんなこと……」
「そりゃ、なんでって」

 レノさんの行動の意味がわからなくて、僅かに震えてしまった私の問いかけの言葉に、彼の口元に浮かぶのは、またあの不敵な微笑み。その表情が私の心臓を鷲掴んで離さない。そしてレノさんは突如としてクリアファイルを抱えていたてと反対の私の手首を掴んだ。

「気になる女にあんな告白まがいのことされてほったらかしにして置くほど、我慢強い男じゃないぞ、と」

 耳を疑うような言葉が鼓膜を揺らす。真っ直ぐ見つめる浅緑の瞳に、豆鉄砲を喰らったような、間抜け顔の私が映り込むのが見える。意味を理解するのに数秒かかってしまった。掴まれた手首も、この事態を把握し始めた私の顔も熱い。だって、まさか、こんなことがあるはずがない。都合の良い夢を見てるんだろうか。私の頬を思い切りつねったら目が覚めるんじゃないだろうか。

「う、うそ……だって、この間だって広報課の方と遊んで……」
「人聞き悪ぃな。あれは仕事の一環。つーか、俺から誘ってねぇし。それになまえちゃんだって、今日男と昼飯食ってただろ」
「ど、同僚です!……っていうかなんで知ってるんですか……!」
「タークス舐めんなよ、と」

 次々に起こる事象に思考が止まりそうになる。頭を必死に回転させて真偽を確かめるために絞り出した問いかけも、悪戯っぽい口調とは裏腹に真っ直ぐにこちらに向けられた瞳に宿る熱情の色が嘘では無いと物語っていて。
 まさか、と、もしかして、という疑心と期待が胸の中で渦巻いて心臓がいたい。こんな展開予想していなかった。だって私は、自分の気持ちに蓋をして、見て見ぬ振りをしてきたというのに。こんな突拍子も無いような手段を使ってしまうこの人はきっと、私が思っているよりずっと大胆で、ずる賢い大人なんだ。
 私の様子を伺うような、探るような、それでいて期待に満ちた眼差し。その視線に耐えられなくて、苦し紛れに言葉を紡いだ。

「それって、しょ、職権濫用では……」
「はっ、そうだな。じゃあ、あとで始末書でも書くとするか」

 そう言って、掴まれた私の左手を引かれて、最も簡単にレノさんと私の距離が縮まる。抵抗なんて、出来るわけがなかった。ふわりと香る煙草の匂いも、鼻腔をくすぐる少しスパイシーな香水の香りも、初めて知るレノさんの一面が、今起こっている出来事が現実であることを証明していた。

「流石にもう逃げられないぞ、と」
「ま、まって」
「待たない」
「サ……サイン!サインまだもらってません!!」
「んなもん、後でいくらでも書いてやるよ、と」

 私の精一杯の抗議の声も虚しく、掴んだ手はそのままに、もう一方の手で顎を掬われる。経費精算の件で毎月私を困らせていたレノさんが、今は想像もしなかった理由で私の胸中を掻き乱している。
 終業を告げるチャイムが館内放送で流れ出す。それがカウントダウンであるかの様に、私が恋をしてしまった赤い彼の端正な顔がゆっくりと近づいてくる。眼前まで近付いてきた浅緑の瞳に見惚れながら、諦めと、期待が入り混じった感情を抱きながらゆっくりと私は瞼を閉じた。




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